坐禅の宗、曹洞宗——遠野南部の菩提を守る古刹

       

・曹洞宗について
 曹洞宗の開祖は道元禅師。道元禅師は鎌倉時代に中国(栄)に留学し、禅による教え(坐禅)を学んだ。帰国後、大本山永平寺を建立し、修行に専念すると共に広く禅の教えを説いた。『正法眼蔵』などの著述を遺し、54歳で生涯を閉じた。曹洞宗では、お釈迦さまをご本尊として仰ぎ、永平寺を開いた道元禅師、總持寺を開いた瑩山禅師を両祖として敬い「一仏両祖」の教えに照らされた信心の日常を送れることを旨としている。
・大慈寺の歴史
 開山は、加賀国(現在石川県)金沢の宗徳寺第2世、龍傳恵金禅師である。本尊は釈迦牟尼佛。開基は、遠野南部9代長経公。遠野南部の菩提寺として知られる。室町時代前期にあたる応永18年(1411)、秋田戦争(南部藩と秋田佐竹公の戦い)の際、八戸南部は宗家の命により援軍を秋田に出陣させた。秋田藩の勢いに押されていたとき、たまたま諸国遍歴中の恵金禅師が敵攻略を告げたことにより、大捷(勝利)を得ることができた。城主長経は深くこれを徳とし、八戸松館の地に、寺(道場)を創建し、恵金禅師を迎え入れ、寺領100石を寄進し、八戸南部の菩提寺とした。寛永4年(1627)、八戸南部22代直義(直栄)が遠野へ移封となる。当寺9世経寿心和尚も直義(直栄)に従って遠野へと移り、はじめは松崎海上の駒木氏の別舎に寄宿した。のちに光興寺に諸堂を整備したが、万治年間(1658~1660)、第11世泰育和尚のとき、現在地に大殿庫院を建立した。それ以降、連綿と連なる法灯の中で多くの名僧を生み出してきた。大正13年3月3日には、開山禅師の威徳(遺徳)により宗務当局より、宗門最高の寺各「常恒会地」を贈られた。

五百羅漢

遠野は民話の里として全国的に知られる。遠野を訪れる観光客が必ずといっていいほど足を運ぶ旧跡のひとつに「五百羅漢」がある。宝暦5年(1755)洪水に加えて疫病が遠野地方を襲い、南部藩4大大飢饉のひとつに数えられる大凶作が発生した。藩全体では餓死者や病死者が約6万人にものぼり、約2万頭もの馬が死んだと伝えられている。これ以降も不作や凶作が続き、領民の多くが犠牲となった。明和2年(1765)、当寺第19世義山玄峯和尚が餓死者の霊を供養するために、読経を続けながら、自然石に阿羅漢像を線彫りした。義山和尚は約20年の歳月を費やし、天明初期に所願成就を見たという。五百羅漢は綾織町新里、遠野南部の居城があった鍋倉城跡に近い物見山北側にある。綾織地区の林道から山道に踏み込んでまもなく、岩石に線彫りした1対の仁王像が道の両脇に迎える。一方は風化が著しいが、もう一方の仁王像ははっきりとみてとれる。これが五百羅漢への山門ともいうべき目印にあたる。道を歩いていくと、幾重にも重なった大小の自然石が現れる。岩石はびっしりと苔で覆われており、いかにも古色蒼然とした雰囲気が漂う。自然石を凝視すると、一体、また一体と線で彫られた羅漢像が眼前に迫ってくる。確認されたものだけでも、4百数十体の羅漢像が彫られている。ひとつとして同じ表情のものはなく、見つめているうちに自然と両手を合わせたくなる。静寂の自然、苔むした五百の石仏のなかにたたずめば、“生人の悲しみも喜びも、生々しく心に聞こえてくる”ような、五百羅漢にはそんな雰囲気が今に伝え残されている。

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大慈寺

〒028-0527
岩手県遠野市大工町9-20

           

電話:0198-62-4041

           

JR:遠野駅より下車徒歩7分。